Blue Eyes - Within Temptation (Lyrics)

Blue Eyes - Within Temptation (Lyrics)

Title Blue Eyes
Artist Within Temptation

Blue eyes just smile to the world
Full of dreams and with fascination
Too soon she saw that her hands were chained and pulled without any freedom
It's always the same, they fear no way out
I cannot break it
I can take it no more

It's burning me up inside
Lost all my tears, can't cry
No reason, no meaning
Just hatred
No matter how hard I try
You fear the beast inside
It's growing, it's waiting
Just to hurt you

This heart was hurt by the light and
I see your world that tries to deny us
Now everything that I love has died or has been shattered to pieces
It's always the same, they fear no way out
I cannot break it
I can take it no more

Just to hurt you
Just to hurt you

Can't you see their eyes, what lies inside
They've given up, they no longer shine
Too soon they close with one last cry
Before they turn to light

It's burning me up inside
Lost all my tears, can't cry
No reason, no meaning
Just hatred
No matter how hard I try
You fear the beast inside
It's growing, it's waiting
Just to hurt you

Just to hurt you

Within Temptationは、
オランダのシンフォニックメタル(オーケストラ、合唱とのアンサンブルは、シンフォニー・交響曲を思わせる)、ゴシックメタルバンド(中世教会風、歌詞もキリスト教がバックにある。)

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    5 か月前

涸れた倦み

2014年2月25日火曜日

かもめは、何だかこわいなと思うの、五木寛之さん 67

池澤夏樹は、五木寛之さんが新潮社から1974年「かもめのジョナサン」を発表した頃、雑誌で「かもめのジョナサン」を翻訳したと言っている。
 彼は、何故かサン・テグジュペリ「星の王子さまを2005年に翻訳している。
 2005年に翻訳したのかどうかは、不明。
 出版社は、出版年月日を故意に前倒しする。
 理由は、他の翻訳者や作者の盗作、盗用作品だから。

 その雑誌の名を語らない。
 雑誌に発表などしていないからだ。
 彼が「かもめのジョナサン」を、翻訳したのは、アメリカの雑誌だ。
 英語の作品を何故英語に直すのだろう?
 日本人向けの雑誌・・であれば、尚更宣伝用に誌名書く。
 雑誌で「かもめのジョナサン」を翻訳した、と毎日新聞紙上で、一面を使って書くのならば、それを毎日出版社に翻訳本として出版して貰う筈である。
 私はほんの数行を翻訳した。
 私が翻訳すると、簡単な話になり、誰が読んでも分かり易くなると思った。
しかし、私が全部翻訳すると、又作家や学者や翻訳家が盗む。
 私は、この池澤夏樹の、「既に雑誌に発表してある」という、NETと新聞を使った大キャンペーンに「かもめのジョナサン」の翻訳を当面見送る事にした。

五木寛之さんは、御自分だけで翻訳された方がいい。
 彼の文章は、どちらかと言うと、無駄のない、分かり易い文章だから、きっと正しい翻訳に行き着けると思う。
 翻訳は、創作ではない。
 創作されたものを、まるでもう一度創作せざるを得ないと思う程、困難な作業ではあるが、それは、決して創作ではなく、創作してはならないものである。
 原書を書いた作者と、その国の人々の心を、日本語で、日本人にそのまま伝える事が出来る・・これ程嬉しい作業は他にない。
 今までの学者や翻訳者を使った下訳制度的な事を止め、又、原書の著作者、出版社への連絡をきちんとすれば、既に翻訳してあるという人の名も分かり、トラブルも減る。
 全ての出版社が責任を持ってそうした事を遂行すれば、作家も出版社も、著作権も安全と思える方向に向かう。
 何もしなければ、そのままである。
 出版社は、自らの首を絞めてはいけない。

 リチャード・バック(Richard Bach、1936年6月23日 - )
 「1974年6月20日に、新潮社より五木寛之の訳(下訳はのち東大教授となる國重純二)で出版された。」と、WIKIPEDIAに太線部分が追記された。
 私は、よかった、と思う。
 五木寛之さんだけが辛い思いをしなければならないとしたら、それは間違った方向に進んでいる事を意味する。
おそらく、お互いに翻訳し合い、五木さんが最後に、それを文学的文章に変えて行ったのだろう。
それが、今まで当たり前に行われて来た、翻訳の手法である。
 私は、翻訳というのは、私という翻訳者の影や訳した足跡を消したの?と言われる程、原作者の意を汲み、黒子(くろこ)に徹する事だと考える。
 作家は、最も翻訳家として適任である。
 小説の翻訳に、翻訳家も学者も要らないのだ。
きっと、五木寛之さんも、そう思っていらっしゃるのだろう。

私は、「かもめのジョナサン」を読んだ事はない。
かもめは、何だかこわいな、と見る度に思う。
 「死を予感させるような、何かがある。」
 下訳の國重純二が2013年暮れに亡くなられた。
 五木寛之さんには、生きていてほしい。
 次から次へと文学者、作家が亡くなられる。
 国家は、書く者を殺してはならない。

21:57 2014年1月25日土曜日